面白半分

ブログの内容は個人の感想、バイアス満載。異論しか出てこないようなことを書いてます。あと、文章を書く練習中。

高度消費社会病としての下流現象

現代の若者が分からないものを放っておけるのはなぜか。
無知のままでいることに生きる不安を感じずにいられるのはなぜか。

今の子供たちは、労働主体として社会的承認を得る機会を構造的に奪われている。就学以前に家庭内労働によって労働主体としてのアイデンティティを基礎付けるのではなく、消費主体として自己を確立させてしまう。

このことにより、子供は教育というサービスの買い手として、教育の「価値や有用性」を問いかける。「ひらがなを習うことにどんな意味があるのか」と。ただしそれは「その商品には興味が無い」という無関心を誇示することで取引を有利に進めることができる商取引における修辞的な質問でしかない。お金があれば大人と同じサービスを受けることができるという全能感を味わった子供のロジカルな対応でしかない。

しかし学びや教育とは時間的現象、変化を要するものであって、無時間現象である消費・等価交換の対象としては成り立たない。市場原理によっては基礎付けることができないというこを誰も子供に告知しない。

勉強する、価値を認められない授業を静かに聞くという行為は子供にとって「不快」でしかない。無価値なものに投資する不快という貨幣を最低限に抑えるために、不快ではない行為に全力で傾注する。これ以上のお金はこのサービスには払えない、と。

更に、「自己に外在的な目標を目指して行動するよりも、自分の興味・関心にしたがった行為の方を望ましいとみる」所謂「自分探し主義」が追い打ちをかける。

「それが何の役立つのか?」という問いを子供もメディアもそれがクリティカルなんだと、ある種の知性の証なのだと思い込む。満足のゆく答えが得られなければ、仮に広く社会的に有用であると認知されているものであったとしても、「オレ的に見て」有用性が確証されなければあっさり棄却され、子供の成長を妨げてしまう。

自分に取って「価値がある」と理解できないものについてこれを学ぶことを拒否し、それを自己決定とする。学ばないことから生じるリスクは自分が引き受ける。「学校でよい成績を取ることは人間の価値とは関係ない」という学校神話の否定から「学校で悪い成績を取ることは人間的価値を高める」という反学校神話へシフトし、階層下降することから達成感を感じてしまう子供たちが出現する。

ニート問題の最大の問題は、このように子供の頃から一貫して経済合理性に基づいて価値判断を下してきた結果として無業者を選んでいるため、彼らの一貫性を経済合理性を論拠にして突き崩すことができない点である。

自らを等価ではない交換には応じない「クレバーな消費主体」として自己規定し、そこから達成感を得ている以上、彼らが主体的に「学び」「労働」といった本来等価交換でないプロセスに身を投じることはない。

彼らが全く違う社会階層の富の体現者である堀江貴文に共感したのは「最も少ない努力で最高の成果を出すこと」を最高善とする思想であり、「賢い生き方をしている」という幻想的な自己規定のカテゴリーにおいては年収や社会的評価がどうかということは副次的なものであったといえる。


下流志向』内田樹